top of page

新旧の淀城跡を訪ねる

新旧の淀城跡を訪ねる

淀君といえば「太閤記」「春の坂道」から宮沢りえ演じる「江〜姫たちの戦国〜」まで数多くのドラマに登場するくらい人気があるキャラクターですが、最期は大阪夏の陣で息子の秀頼とともに自害するという壮絶な人生を歩んだ人でもあります。

しかし淀君という呼び名は後世になってからであり、淀城に住むようになってから「淀の方」といわれることはありましたが、本人は終生本名の「茶々」で通していたそうです。

​さて、その淀君が住んでいた淀城は、じつは現在京阪淀駅そばにある淀城跡にあったのではなく、現在の淀城跡よりやや北寄りに位置していたといわれています。

​では今はどうなっているのか歩いてみましょう。

かつての淀城の石垣が残っている

とても静かな淀城跡公園の道

京阪淀駅の中央口を東に出ると目の前に淀神社があります。その方角に進みますが石畳の参道には行かずに左横の小道を行くと見える稲葉神社があるところ、そこが淀城跡公園です。

この淀城は江戸時代に伏見城の廃城とともに松平定綱が築いたものです。

ここにはかつての石垣の名残があるだけで、散歩する人とハトに餌をやる人以外、ほとんど人影はありません。

したがって観光地ともいえないですが、ただひたすら静謐な気配が好きな人にはいいでしょうね。

淀城跡公園を抜けると納所の交差点に着きます。やや複雑な五差路になっていますが北方向の旧千本通りに入ると唐人雁木旧跡の石碑が立っています

ここは昔船着き場があったところで、唐人とは朝鮮通信使のことで12回来日した記録が残っているそうです。

 

雁木とは船着き場の木製階段が雁の列に似ているからだそう。

さらにそこから200mほど進むと桂川に流れ込む小川にかかる五番橋という御影石の橋があります。​この奥に見えるのが納所小学校でです。

唐人雁木旧址の石碑

五番橋 明治四十五年六月と刻まれている

橋を渡って50mほど進むと右手に寺が二つありますが奥が妙心寺です。

​あまり人気もないひなびた雰囲気の寺ですが、かつての歴史を伝える寺であり、鳥羽伏見の戦いのときの砲弾の跡が残っています。

妙心寺の門

妙心寺の境内

さて肝心の淀古城ですが、妙心寺と納所小学校、そして付近の田畑を含むこの辺り一帯にあったといわれていますが、遺構は一切残っておらずはっきりとしたことはわからないそうです。

戦乱で焼け落ちたわけではなく伏見城に移転した形ですので、遺物なども出土しないのかもしれません。

今はただの旧街道としか見えないのんびりとした景色が広がっています。

でもここにはかつて港があり、京都と大阪を結ぶ大変栄えた交易の中心地だったのです。

秀吉によって城が築かれ、茶々が移り住んでいた場所であり、のちに戦火に焼かれた地なのです。

激動の時代と現在の対比、そんなことを感じながら歩くのもいいかもしれませんね。

 淀古城について

 

淀古城は水陸交通の要街として槇島城と並ぶ山城国洛南の二大軍事拠点の一つであった。また西国方面の海産物の集荷市場、魚市場があり、対岸の山崎城と並んで京都の要害で、淀古城の東側には現在は存在していない巨椋池が広がっていたと思われている。

 

1890年(明治23年)の『測量の仮製図』によると、堀跡と納所集落の東側に土塁が記載されていたが、現在跡地には、宅地化、耕作地、京都市立納所小学校が建っており、唯一妙教寺に石碑が建つのみで、北城堀や小字城堀という地名が僅かにその面影を留めている。

 

淀古城については近隣の淀城と違って城郭は不明な点が多い。天守に関しても詳細は不明であるが、『駒井日記』には淀古城の天守が存在していた事が記載されている。

 

1582年(天正10年)6月の本能寺の変の後、『兼見卿記』によると明智光秀が淀古城を改修したとされ、秀吉と光秀の山崎の戦いでも利用された。秀吉の天下となってからは、1589年(天正17年)3月に、秀吉の弟豊臣秀長が淀古城を改修し、秀吉が側室茶々に与え産所とした。これにより茶々は「淀殿」と呼ばれるようになる。この城で鶴松が産まれるが、1591年(天正19年)に死去してしまった。

 

鶴松が死亡した後は、甥の秀次が秀吉の養子となるが、淀殿が秀頼を産むと秀吉と軋轢が生じ、1595年(文禄4年)、切腹。家老でこの城の最後の城主であった木村重茲も連座、城も廃城となった。

bottom of page