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消えた巨椋池の謎

消えた巨椋池の謎

(ありし日の巨椋池)

多くの人に愛された巨椋池

 

かつて京都南部には、とても大きな池がありました。​

その池の名前は巨椋池、東西4km、南北3km、周囲は16kmもある湖といってもいいくらいの大きさで、甲子園球場で例えると、約200個分もありました。宇治川、桂川、木津川の三川が合流し、山崎の天王山と石清水八幡宮のある男山に挟まれた狭い地形のため水の流れが悪かったためにできたといわれています。

歴史は古く、万葉集にも「巨椋の入江とよむなり 射目人(いめひと)の伏見が田居に雁わたるらし」注1 と詠まれています。

(蓮見舟)

(鳥撃ちのハンター)

巨椋池にはヨシが茂り、魚や貝が豊富に採れるすばらしい漁場であり、渡り鳥なども数多く飛来しました。注2 

植物も天然記念物のムジナモ注3 をはじめとしたこの池固有の水生植物も数多く存在しましたが、なかでももっとも人気呼んだのは蓮(はす)でした。

昭和二十五年発行の和辻哲郎著「埋もれた日本」の中に「巨椋池の蓮」注4 という随筆があります。昭和のはじめごろ筆者がこの地を訪れ、蓮を見に舟に乗ったときのことが書かれています。

以下一部抜粋

蓮の花は無限に遠くまで続いていた。どの方角を向いてもそうであった。地上には、葉の上へぬき出た蓮の花のほかに、何も見えなかった。

~中略~

純粋にただ蓮の花のみの世界として見せられたのである。これは、それまでの経験からだけではとうてい想像のできない光景であった。私は全く驚嘆の情に捕えられてしまった。

この随筆には舟に乗るため三時に起きたことが出てきます。当時蓮見舟は、早朝の四時のまだ暗いうちに出航したようです。また蓮の花色について五色書かれていますが、実際に十五種類ほどの蓮があったようです。

明治四十年(1907年)8月6日発行の日出新聞には、多い日は巨椋池に二百人も人が訪れたこと、水面は一面緑でおおわれ、紅や白の蓮がすばらしい香りを辺りにはなっていたことが書かれています。

 

また晩秋には狩猟もさかんに行われました。

大正一四年(1925年)9月25日の日出新聞によると、十一月一日から鴨やシギ、鷭(ばん)、くひな(くいな)など、種類ごとに順番に解禁日が設定され、鳥だけでなく鹿や猪も狩猟の対象でした。また解禁日には数百人のハンターが訪れたようです。注5

このように当時の巨椋池は大勢の人たちの訪れる観光地であり、自然豊かな場所だったようです。

 

安土桃山、江戸時代の巨椋池

この地で行われた最初の改修工事は十六世紀末、豊臣秀吉によるものでした。伏見城の築城とともに、宇治橋下流で巨椋池に直接流れ込んでいた宇治川を、槇島堤によって分離させました。

これにより宇治川の流路は北に迂回し、伏見城下に導かれ城の外濠の役割を果たすとともに、水位を上げたことにより城下に港の設置を可能にし、大阪城と結ぶ拠点を作ったのです。今も伏見には伏見港の跡地があります。

伏見城の城下町南には宇治橋を移築して豊後橋(今の観月橋)を架け、池の東岸を南下する小倉堤を築いて南北の交通路である大和街道を新たに築きました。

いくつかの改修工事を経て巨椋池は大池、二の丸池、大内池、中内池の四つに分断されたのです。このため江戸時代には巨椋池はたんに大池と呼ばれていました。

この池を巡って農民と漁民の紛争もたびたび起こり、江戸時代には江戸にまで行って訴訟を起こした記録も残っています。この紛争は昭和にはいるまでまで続いたそうです。また漁民同士でも管轄の違いから紛争もありました。注5

また巨椋池周辺はたびたび洪水に見まわれました。そのため寛永一四年(1637年)、それまで淀城あたりで合流していた木津川の付け替えを行いました。注6

さらに鳥羽伏見の戦いが勃発した明治元年(1868年)の正月には、俗に「お釜切れ」と呼ばれる大洪水のさい木津川の堤防が決壊し、これがきっかけとなって木津川は以前よりさらに西の現在の河道に付け替えられました。

​豊臣秀吉以前と以後の比較 下は堤が築かれたことにより、宇治川が湾曲している

​(東一口の町並みは当時の面影が残っている)

豊臣秀吉以前の地図に現在の川筋や高速道路を重ねたもの

​(クリックで拡大)

明治から昭和へ 巨椋池の終焉

いくつもの改修工事により巨椋池は少しずつ川の流入が減り、孤立化していきましたが、ついに大きな転機が訪れました。明治四十三年(1910年)に完成した淀川の改修工事です。

三川合流地点をずらし、宇治川を付け替えるという大規模な河川改修によって、巨椋池は東一口と宇治川をつなぐ水路だけでつながれる、ほとんど独立した池になったのです。

川の流入が閉ざされた巨椋池は水位が低下し、生活排水などの流入によって水質は悪化しました。

魚貝類や水草が激減する一方で、代わりに浮き草が水面をおおって蚊が大発生するようになり、昭和二年(1927年)にはマラリア流行指定地とされるなど、環境は劣悪の一途をたどります。

遊水地としての機能も漁場としても価値のなくなった巨椋池では、昭和八年(1933年)に食糧増産のため干拓事業を開始することになったのです。

この事業は八年後、戦争の足音が聞こえるの昭和十六年(1941年)にようやく終りを迎えました。注7

 

こうして数奇な運命を辿った巨椋池は終焉を迎え、ついに地図からも消えたのです。

注1 意味は、巨椋の入江がざわざわと鳴り響いている。射目人(狩人)が身を伏せているという伏見、その田んぼの方へ雁が​飛んで行くのだなあ。

注2 魚類43種、貝類36種、鳥類63種、水生植物153種。日本の水生植物の80%が巨椋池に存在した。

​注3 大正14年(1925年)に天然記念物に指定されるが、その後絶滅して指定を取り消された。

注4 「巨椋池の蓮」は青空文庫で見れます。

注5 株札(鑑札)を交付され漁業を認められた弾正町、東一口(ひがしいもあらい)、小倉村の三町は、それぞれ伏見奉行所、淀藩、天領(幕府直轄地)と管轄が違う。

注6 淀城主 永井尚政による。

注7 総工費は当時のお金で約346、4万円。現代で換算すると約160億円もかかった。干拓地は10Rあたり330円~512円で募集された。

参考文献 

おぐら池 -入江、大池、巨椋池- 宇治市歴史資料館

宇治文庫3 巨椋池 宇治市歴史資料館

巨椋池ものがたり 久御山町教育委員会

巨椋池干拓地のいま 京都府山城土地改良事務所

巨椋池の民俗 京都府立山城郷土

​京のみどり 79号 京都市都市緑化協会

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